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「―!!」

咲が勢い良く身を起こすと、机からペンケースが床へ落ち、大きな音をたてた。
中身が派手に散らばる。

「…、すみません」

やや間をあけ、一度だけ瞬く。教師とクラスメートの視線が自分に向けられている事に気付き、慣れた様子で謝罪した。
気をつけろ、と教師は言い再度黒板へ向くと数字の羅列に目をやり、同級生達は何事もなかったかのように、各々それまでの姿勢に戻る。
彼が授業中話を聞いていない事は今に始まった事では無かった為、このような事が起きても、クラスの誰もが気にとめはしなかった。そして、彼の場合話を聞かないだけであり、勉強自体は出来た為、誰も文句を言わなかった。
落としたペンケースを拾っていると、隣の席の同級生が散らばったペンを拾い、目の前に差し出してくれた。
ありがとうと短く礼を述べそれを受け取ると、眼鏡の似合うその女性は清楚な笑みを見せた。
散乱したもの全てを拾い上げ、再び席へつく。

(…また、あの夢か)

机に肘をつき顎を掌で支え、視線を窓の外へ向けた。
春の優しい陽に染められた青い空に、桜の花びらが雲の白を背に舞っている。
ため息をつこうと大きく空気を吸うと、暖かな酸素が肺を満たした。心地良さに僅かに目を細め、ゆっくりと息を洩らす。

―脳内では先ほどまで見ていた夢が再生されていた。

ここ数日、眠りにつく度にあの夢を見る。
幼い頃の自分が、白の世界の中で誰かと会話をしている。それは曖昧な感覚と、不気味な程にリアルな感情を与える夢だった。
あの長身の男に抱かれた感覚が残っているような気がして、静かに自らの腕を強く抱きしめた。
男の顔は思い出せなかったが、夢の彼は何故か懐かしく、とても暖かだった。
言いようのない切なさが込み上がる。
それと同時に、彼との行動を思い出し赤面した。
夢の中の自分は彼と抱き合い、口付けを交わしていた。それが意味するものは何なのだろう。
欲望か、と一瞬だけ考えたが、他の事に熱中している今、それはないなと苦笑する。今の彼には愛や恋、性への関心など全くと言って良いほど無かった。
しかし心当たりがあった。あれは、もしかしたら過去に実際にあった出来事なのかもしれない。
咲は数年前までの記憶を殆ど失くしている。夢に見た頃もそうだった。
何故記憶を失くしたのかはわからない。周りの人間は事故によるものだと言っていたが、何の事故なのかは誰一人教えてはくれなかった。
咲は、記憶を失くした原因が事故によるものだとは信じていなかった。
記憶を失くした後目覚めた時、咲は病院のベッドに寝ていた。治療等された様子もなく、ただ、寝ていたのだ。
その時から既に、趣味である剣道を何不自由無く行う事が出来る程、身体は怪我ひとつ無かった。
打ち所が悪くて記憶を失くした可能性もある。けれども、意識を取り戻した時の事を思うと、物理的なものが原因で記憶を失くしたというのは考えにくい。
だとすれば、考えられるのは精神的な何かが原因なのだろう。記憶を失くす前の自分に、何かあったに違いない。
そして気になった事がもうひとつ。
咲は静かに空いたほうの掌を胸へあてた。服に隠されているが、そこには石でできたペンダントが飾られていた。
夢に見たものと全く同じ、深い赤のペンダント。
記憶を失くした時から持っており、目覚めた時も身に付けていたもの。それが、このペンダントだった。
様々な記憶を失いながらも、咲が唯一覚えていたのが“このペンダントは、必ずいつも身に付けておく”こと。
誰に言われたのかまでは覚えていないが、初めて夢を見た時、このデジャブにかなり驚いた。
これは完全に直感だけでしかないのだが、もしかしたら記憶傷害があるのは、あの男と関係があるのかもしれない。
夢の中で男は「お前が俺を忘れても」と言った。その言葉が妙に引っかかっていた。
けれどもあの夢自体、実際にあった事とも限らないし、確証も何もない。所詮は夢の話、寧ろその可能性の方が高いだろう。
然し咲には夢の中での感情が忘れられなかった。
彼が自分の側を離れてしまうのではないのかという恐怖。愛されている事の幸せ。触れ合う事の出来る喜び。彼への愛しさ。
生々しく身体を巡った感情。あれは、実際に経験しなければ得られない感情だ。
どうしても連日見るあの夢が、咲にはただの夢だとは思えなかった。
思考を巡らせているうちにチャイムが鳴り、同時に、どっと教室が騒がしくなる。

「一体、あれは誰なんだ」

舞う桜を見つめ、ぽつりと洩した声は騒がしさに掻き消される。
空は相変わらず青く広がっており、柔らかな日差しが咲を包んでいく。
彼の問いに答える者は居なかった。